先日の試合の際このような球がありました。
私は本部席から見てましたので詳しい状況までは確認出来ませんでしたがおそらく死んでるような球。
実はこれは微妙な球でタッチかオープンかで全然違いますがオープンでも場合によってはタッチのように球を走らせられるような球。
これを撞いたプレイヤーは残念ながら外す結果になりました。
この問題は外したか入ったかではない話です。
試合の後、相手のプレイヤーはこの球を再現して教えてました。
外したプレイヤーと話しました。
『教えてもらって気が付いたんですが、この手の球、濱田さんから教えてもらった事ありますよね。失敗しました。』
実はこの球を撞いたプレイヤーにこの手の球の対処法を教えた事がありました。
今書いた事は外したのがダメだとか良いだとかそんな話ではありません。
私の言いたいのはいろいろ教わってわかっていてもいざその時になるとその発想が出てこなかったのは何故なのかって事です。
彼はどう対処すべきだったのか知識として知ってはいたんです。
でもその時は違うチョイスをした。
私がここで思うのは“知識”として知っていてもそれを“体得”しなければ本当に自分の血や肉にはならないってことです。
知識として知るのは意外と難しくはないのですが、いざこの場面で!って時にその知識の引き出しを開けれるかどうかは難しい事です。
知識は頭、体得は体、と言いますか体得は“におい”もあると思います。
前回ブログに書いた“点と線”にも似てる事。
知識は単発で覚えれるのに対して体得は流れで出てくる場面に応じた対応。
これはビリヤードだけではなく他の事にも言える事ではないでしょうか?
仕事場で初めて教えてもらう仕事があったとします。
最初は上司が教えてくれます。
でも教えてくれるのは有り難いのですが全然自分にやらせてくれない。
頭では聞いて覚えていますがこれでは自分の身にならない。
そして初めてやってみろと言われ失敗する。
上司はこう言います。
『何度も教えたのに何で出来ないんだ!』なんて。
出来るわけがありません。
やった事ないのですから。
これは教える側の責任でもあります。
誰かに何かを教えるってのは失敗した時のフォーローも含めて教える側が責任をもって考えてあげなければならないと私は思います。
教える側はついつい失敗する前に『そうじゃない』とか『こうするんだ』と言ってしまいがちですが私はビリヤードを教える上でまず考えるのは失敗させる事。
そして何故そうなったのか考えてもらい考えた事をやってもらう。
それでも出来ない時はヒントを与え、またやってもらい体感をもって知ってもらい、その後私がやってみせてイメージをつかんでもらい最後にもう一度やってもらい出来たらその意味を教えます。
知識と体得、点と線。
これを理解出来る“ビリヤードに対する考え方”を学んでもらいます。
この繰り返しで一つ一つ覚えて応用も考え前に進む。
これはプロになった今でも私はしています。
私が前に進んでいないと教える人達に申し訳ないですからね。
最初の話に戻りますが上に書いた配置で失敗した事は彼にとって何事にも代え難い経験になったと思います。
この球に関してですが試合で失敗し後に教えてもたった事で知識を持って体得しました。
これからビリヤードライフを送る上で一生忘れない出来事になったことでしょう。
皆さんも考えてください。
知識としてある事は今のあなたの血や肉になってるのか。
知ってるだけでは何の意味もありません。
それを体得して初めて自分のものになるんです。
そのバランスを今一度考えてみてください。
“知るとは、単に知識によって理解するのではなく、体得して初めて知った事になる”
松下幸之助
この気持を私も忘れずにこれからもビリヤードに精進していきたいと思います。
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